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理念「至誠惻怛(しせいそくだつ)」

至誠惻怛(しせいそくだつ)

この言葉は河井継之助が幕末期の儒家・陽明学者のひとりである山田方谷(やまだほうこく)に師事した際、方谷から贈られた王陽明(1472-1529年)の一節だそうです。
「至誠惻怛(しせいそくだつ)」の「至誠」は極めて誠実なことで真心を意味し、「惻怛」というのは痛み悲しむ心の意味します。
即ち、まごころ(至誠)と痛み悲しむ心(惻怛)があればやさしく(仁)なれる。そして目上には誠を尽くし、目下にはいつくしみをもって接するようにします。心の持ち方をこうすれば物事をうまく運ぶことができると言います。
つまり、この気持ちで生きることが、人としての基本であり、正しい道だということとしています。
孔子、孟子の教えを会得してなお足らざるところが、この「至誠惻怛」(しせいそくだつ)の教えであり、これを王陽明が明らかにしたと解釈されています。


 山田方谷(1805~1877)

幕末維新期の儒学者。名は球、字は琳卿、通称安五郎,方谷は号。備中国阿賀郡西方村(岡山県高梁市中井町)に絞油業を営む父五郎吉(重美)と母梶の長男に生まれる。丸川松隠に就き、のち文政8(1825)年上洛して寺島白鹿に学び、10年松山藩(岡山県)藩校有終館会頭となり、士籍に列した。天保2(131)年再上洛、春日潜庵ら陽明学者と往来、翌年江戸に出て佐藤一斎に師事する。7年帰藩後藩校学頭。嘉永2(1849)年藩主板倉勝静の抜擢により元締役兼吟味役、またのち郡奉行となり破綻した藩財政の立て直しを行う。学者としての名声高く、久坂玄瑞、秋月胤永、河井継之助らが来遊従学する。文久2(1862)年藩主が老中に就任するや、方谷を顧問とした。慶応1(1865)年藩主の老中復職後再び顧問となり幕末政局に対するが意を得ず帰藩する。維新後はもっぱら教育に努め、明治6(1873)年再興の岡山県閑谷学校に請われて出講した。その思想は陽明学であるが、単なる祖述に終わらず「経世致用の学」との自信に裏付けられていた。
出典 朝日日本歴史人物事典

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